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アントニオ・サリエリを訪ねる旅
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才能あるゆえに天才を恐れる

映画『アマデウス』で知名度があがった作曲家アントニオ・サリエリ。

ロック・ミュージカル『モーツァルト』にも登場します。

サリエリの足跡を訪ねてみました。ウィーンが中心です。

『モーツァルト』の旅も記載していますので、こちらもご参照ください。

サリエリとモーツァルトは縁が深いため、紹介場所が多々重複しております。ご了承ください

ヴェネツィア

ヴェネツィア
 サリエリは、1750年イタリア レニャーゴ生まれ。 親は音楽家ではなく、モーツァルトのように環境に恵まれているわけではありませんでした。 レニャーゴを出た後、パドヴァ、ヴェネツィアに住んでいました。
ドゥカーレ宮殿

ドゥカーレ宮殿

 父を亡くしたサリエリは、1666年初頭16歳の時にヴェネツィアのモッチェニーゴ家に引き取られました。
当時、アルヴィーゼ・モチェニーゴ4世は、ドージェ(ヴェネツィアの元首)を務めていました。
サリエリは、不自由なく生活していたことと思われます。
ドゥージェは、ドゥカーレ宮殿で執務していました。
サン・マルコ寺院

サン・マルコ大聖堂

 サリエリは、サン・マルコ大聖堂副学長のジョヴァンニ・バッティスタ・ペシェッティに音楽を教わり、彼が亡くなった後は同じく大聖堂のテノール歌手のフェルディナンド・パチーニに教わりました。
フェニーチェ歌劇場

フェニーチェ歌劇場

 サリエリはモッチェニーゴ家のボックス席で多くのオペラを見たと推察されます。当時の劇場はいずれも残っていませが、サン・ベネディット劇場の後身フェニーチェ劇場が現在もオペラを上演しています。
 サリエリが過ごしたであろうモッチェニーゴの屋敷は、現在も残っており、博物館として公開されています。
豪華な屋敷に、当時の貴族の暮らしが展示されています。

ウィーン

ウィーン
 オーストリアの宮廷作曲家ガスマンに才能を見込まれ、 1666年6月16日にウィーンにやってきました。

シェーンブルン宮殿

シェーンブルン宮殿
 宮廷楽長だったサリエリは度々シェーンブルン宮殿で演奏を行いました。 1786年には、冬の庭園で『Prima la musica e poi le parole』が上演されました。

マドリッド ドン・キホーテ像

 1771年、サリエリはオペラとバレエの『ガマーチェの結婚式でのドン・キショッテ』(ドン・キホーテ)を作りケルントナー・トーア劇場で上演するが、失敗に終わる。
小説の後編20章から21章部分なので、有名な風車のエピソードではないですね。
写真は、マドリッドのドン・キホーテ像。

ウィーン国立歌劇場

 ケルントナー・トーア劇場、現ウィーン国立歌劇場では、上記1771年『ガマーチェの結婚式でのドン・キショッテ』をはじめとして、サリエリの多くの作品が上演されました。

ウィーン ブルク劇場

ブルク劇場
1770年1月10日『女文士たち』がサリエリ最初の成功作となりました。
 その後も1785年 サリエリの『トロフォニオの洞窟』が、
1795年 に『ヘラクリトゥスとデモクリスト 』が上演されました。
写真は、現在のブルク劇場で当時とは場所が異なります。
ブルク劇場

ブルク劇場跡地

 写真左側の建物の辺りがブルク劇場があった場所です。王宮の向かい側です。

ウィーン シュテファン寺院

シュテファン寺院
シュテファン寺院の修道女のマリーア・テレジアに出会い求婚するものの彼女の後継人から定収入が少ないと断られました。
それを耳にしたヨーゼフ2世は、サリエリの収入を三倍の300ドゥカードにしてくれ解決。
1774年10月10日にサリエリとマリーア・テレジアは結婚しました。

ミラノ スカラ座

スカラ座
 1778年3月8日、ミラノのスカラ座は、サリエリ作『見出されたエウローパ』で開場しました。
オーケストラ71名、合唱40人以上、エキストラ100人、馬36頭出演する大作でした。
今も昔も、オペラ劇場の最高峰に輝き続けるスカラ座。
スカラ座が再建された際も、同作品で劇場は幕を開けました。

ローマ

 1779年ローマで、『思いがけない出発』を作曲しました、どの劇場であったか、初日に立ち会ったかは不明です。

フィレンツェ ぺルゴラ劇場

 1779年ローマで、『思いがけない出発』を作曲しました、どの劇場であったか、初日に立ち会ったかは不明です。

ローマ カノッビアーナア劇場

 1779年8月21日、スカラ座の隣にできた劇場は、サリエリの『ヴェネツィアの市』で開幕しました。
他の作曲家作品で開幕よていでしたが仕上がらず、既存作品『ヴェネツィアの市』で時間稼ぎした後、サリエリとルストの共同作品『護符』を分け合って作曲し上演されました。
カノッビアーナア劇場は、現存しません。

パリ オペラ座

パリ オペラ座
 1784年パリ・オペラ座で上演された『ダナオスの娘たち』がサリエリで最も成功した作品とされています。
サリエリ自身もフランスまで足を運びました。 個人的には、『見いだされたエウローパ』の方が知名度がある気がしますが・・・。
写真は現在のオペラ座(ガルニエ宮)で、当時とは場所が異なります。
 当時のオペラ座は、サン・マルタン大通り(boulevard Saint-Martin)にありました。
現在は、デ・ラ・マルタン劇場になっていますが、建て替えられているため建物も当時のもとは異なります。

パリ チュイルリー宮殿

チュイルリー宮殿
 1788年 チュイルリー宮殿でサリエリ作曲のカンタータ『最後の審判』が演奏されました。
この時、サリエリが立ち会ったかは不明ですが、パリに滞在中なので滞在したのではないかと思います。
チュイルリー宮殿は現在建物は残っていませんが、現在チュイルリー公園となっています。

シェーンブルン宮殿のオランジュリー

シェーンブルン宮殿のオランジュリー
 1786年2月7日、シェーンブルンの一角にあるオランジェリーでサリエリはオペラ『はじめに音楽、次に言葉』を、モーツァルトは3日間で完成させた『劇場支配人』を演奏した。
結果としてヨーゼフ2世からは、翌日モーツァルトの倍100ドゥーカットが支払われた。

ウィーン ホーフブルク

ホーフブルク
 1790年10月9日レオポルト2世の皇帝即位にともないナポリ王夫妻を歓迎するために、ホーフブルク宮殿内のレドゥテンンザール(舞踏会室)での歓迎晩餐会で、サリエリは食卓音楽を指揮しました。 レドゥテンンザールは、焼失してしまったので当時面影はないといことだがヨーゼフ広場に面したスペイン乗馬学校側でした。

フランクフルト 大聖堂

フランクフルトの大聖堂
 1790年10月9日レオポルド2世の戴冠式が、フランクフルトの大聖堂(聖バルトロモイス教会)で行われ、サリエリは『ミサ・ソレムニス』と自信が作曲した『テ・デウム・ラウダムス』を演奏しました。
フランクフルトの大聖堂
 大聖堂内部はシンプルです。戴冠式当日は、華やかに飾り付けられていたのかもしれません。

ウィーン 宮廷礼拝堂

 戴冠行事で指揮したにも関わらず、ヨーゼフ2世色を一掃したいと考えたレオポルド2世の考えで、サリエリは宮廷楽長は留任したもののイタリア・オペラの指揮者を解任し、宮廷礼拝堂の宗教音楽指揮者へと格下げしてしまいました。
宮廷礼拝堂は、現在でもウィーン少年合唱団の聖歌を歌う場所として知られていますが、サリエリ自身も入団テストをしたり指導したりしていました。

プラハ 聖ヴィートゥス大聖堂

 私は、行ったことがないので、写真なしでご紹介します。プラハの聖ヴィートゥスでの1791年8月31日レオポルド2世のボヘミア王としての戴冠式典と9月2日の正式な戴冠式で、モーツァルトの曲を演奏している。

ウィーン アン・ディア・ウィーン劇場 

アンディア・ウィーン劇場
 1791年 モーツァルト作『魔笛』が初演された劇場です。
『初日にサリエリが、愛人(歌手カヴァリエり)と共にやってきて、絶賛してくれた。』とモーツァルトが書き残しています。この一文だけでも、かなり『アマデウス』とはイメージが異なります。

ウィーン モーツァルト最後の家

モーツァルト最後の家
 モーツァルト最後の家。
幾度もサリエリが訪ねてきたと言われています。
サリエリの家から徒歩圏内です。

モーツァルト最後の家の前

モーツァルト最後の家の前
 モーツァルト最後の家の前にまっすぐ伸びる道です。
『アマデウス』でサリエリが夜な夜なレクイエムの催促に来ていたのはこの道ですね。
映画は、チェコで撮影されたためここではありません。

ウィーン シュテファン寺院

シュテファン寺院
1791年 サリエリはモーツァルトの葬儀に出席しました。しかしそ、こには、モーツァルトの妻コンスタンツェの姿はありませんでした。
さらに、1805年8月15日に、ナポレオンの誕生日を祝して『テ・デウム』の監督。1815年1月21日には、ルイ16世の命日に『レクイエム』(サリエリの曲ではない)を指揮し、フランスかレジョン・ドヌール勲章が送られた。

トリエステ ヌーヴォ劇場

 私は行ったことがないので、場所のご紹介のみ。 1791年4月21 サリエリにヌーヴォ劇場(現ヴィバルデイ歌劇場)から依頼で、『カプアのアンニバーレ(ハンニバル)』を作曲し、初演された。サリエリトリエステで作曲し初日に立ち会っている。

ウィーン グラーベン通り

グラーベン通り
サリエリは度々弟子たちにアイスクリームをおごってあげていました。とりわけこの通りのレモネード店がお気に入りだったととヒュッテンブレンナーの記録にあります。
ウィーン中心部の通りで、現在でもブランド店が並んでいます。一時期この通りにモーツァルトが住んでいたこともあります。

ウィーン サリエリの家

サリエリの家
 オーストリアの宮廷作曲家ガスマンに才能を見込まれ、 1666年6月16日にウィーンにやってきました。
当初住んでいた場所は分からないのですが、晩年の家は残っています。
『アマデウス』のイメージとは異なり、ここ自宅で亡くなりました。
 シュテファン寺院のすぐ近くにあります。
となりはヴェルディが住んでいた家ですが、時代が違います。
サリエリの家
 サリエリが住んでいたことを示すプレートです。

ウィーン 病理・解剖学博物館

病理・解剖学博物館
 サリエリが晩年入院していた病院がそのまま残っています。
現在はウィーン大学の敷地内となっています。
現在は病理・解剖学博物館となっていて、内部見学も可能ですが、展示物はホルマリン漬けの人体ですのでご注意を。

ウィーン 楽友協会ホール

楽友協会ホール
 1817年、サリエリのウィーン楽友協会音楽院を設立し、指導者に就任しました。
黄金のホール

黄金のホール

 ニューイヤーコンサートで有名な黄金のホールをサリエリが設計しと言われています。
しかし、現在の建物は、フランツ・ヨーゼフ時代に建てられたものなので、間違いであるか、サリエリが生前に設計したものを再現したかでしょう。

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