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モンテ・クリスト伯
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ス ペイン広場

 モンテ・クリスト伯とアルベールらが滞在したロンドンホテルは、
スペイン広場にありました。
謝肉祭では、モンテ・クリスト伯とフランツたちは、
バブイノ街(写真中央)を通って、ロスポリ楼へと歩きました。
スペイン広場


サンタ・マリア・イン・マッジョレー教会
聖女マリー・マジュール寺院
(サンタ・マリア・イン・マッジョレー教会)


 
フランツは、アルベールをローマ城壁外を通ってコロッセオに
連れて行こうと考えていましたが、
宿屋の主人に山賊がいて危険だと言われ、
スペイン広場から南下してこの教会の裏手を曲がる道に変更します。

 テルミニ駅から歩いて行かれる距離にあります。
大きな寺院で、敷地は市国に属しています。



コロセオ街道(コロッセオ通り)

 フランツは、コロッセオの前に出るまで、コロッセオをアルベールに見せまいと、
この狭い通りを選びました。
現在でも、木立ちや建物によってコロッセオが近くに来るまで見えません。
コロッセオ街 

コロッセオ  コリゼー(コロッセオ)

 アルベールは、案内人について獅子の部屋や
剣闘士の控室を回った。

 現在コロッセオでは、自由に見て回ることもできまさが、
定期的に見学ツアーも開かれています。


コリゼーの柱

 フランツは、コロッセオの案内人から離れ、
柱の陰に隠れていた。
そこで、モンテ・クリスト伯とルイジ・ヴァンパとおぼしき人物の
会話を聞いてしまう。
コロッセオの柱


夜のコロッセオ
夜のコリゼー

 フランツとアルベールがコロッセオを実際に訪れたのは夜。

夏は、夜間の見学会も開かれます。
また、この辺りの遺跡はライトアップしますので、
夜訪れる価値があります。


フォーラム(フォロ・ロマーノ)

 フランツはアルベールに、コロッセオの後、
フォロ・フォマーノに連れて行こうと考えていましたが、
フォロ・ロマーノを見学した描写がなく、実際に訪れたかは不明です。
フォロ・ロマーノ

アルジェンチーナ劇場
アルジャンチナ劇場(アルジェンチーナ劇場)

 フランツとアルベールは、アルジェンチーナの客の中に、
モンテ・クリスト伯爵とエデの姿を見つけます。
モンテ・クリスト伯爵は、この劇場に席を持っていて、
フランツとアルベールにも貸しています。
 二人に席をかした晩、伯爵はパーリ劇場に行く予定とありますが、
パーリ劇場は、残っていません。。




ロスポリ楼(ルスポリ宮)


 謝肉祭の仮装パレードを見るため、モンテ・クリスト伯爵は、
ロスポリ楼のはずれの窓3つ借りました。
これは、23,000エキュはするということですが、
貨幣価値がわかりません。
ルイジ・ヴァンパの手下に恩赦を得られた合図として、
両脇の窓には黄色の綾布、中央には白い綾布を張っていました。
何階なのかは、記述がありません。一番目を引く3階でしょうか?

 現在は、特に目を引く建物ではありませんが、
ゲーテも謝肉祭の際にローマを訪れて、
ロスポリ楼について書き残しています。
当時とは一際大きな館だったのでしょう。
ロスポリ楼


コルソ通り



クール通り(コルソ街)


 
 ロスポリ楼からポポロ広場まで、まっすぐに伸びる通りです。
ローマのほぼ中央を南北に通っています。

コルソ街の標識


サント・マリー・デル・ポポロ
   (サンタ・マリア・デル・ポポロ)


 死刑囚の二人が最後の時を過ごした教会です。
公開されているため、内部を見学することもできます。
サンタ・デル・ポポロ


ポポロ広場のオベリスク
ポポロのオベリスク

 オベリスクの下に死刑執行台が設置されました。
現在は、そんな過去もしらず憩いの場に。


バブイノ町とリベタ町の角にある二つの寺
  (双 子の教会)


 ポポロ広場に面している、よく似た外観の教会。
この教会前の張り出しは、貴族たちの席でいっぱいになっていました。
残念ながら、現在内部は非公開です。

ポポロ広場

ピンチョの丘
モンテ・ピンチョ(ピ ンチョの丘)へ続く階段

 ポポロ広場からピンチョの丘へ続く階段は、民衆でいっぱいに。





モンテ・ピンチョとバブイノ町の間

 モンテ・クリスト伯は、死刑を見物するため、
ピンチョの丘とバブイーノ街の間の館の3階の窓を、高額で買取とりました。


現在1階に有名なカフェが入っています。

ピンチョの丘とバブイーノ街の間


ヴェネツィア広場
ヴェネツィア広場

 フランツとアルベールは、仮装して、
ポポロ広場とヴェネツィア広場を上ったり下ったりしました。
その時に、田舎娘に扮した美女に出会います。
右側の建物が、小説にも登場するヴェネツィア宮。
正面のヴィットリオ・エマヌエレ2世記念堂は、
1895年着工のため、モンテ・クリスト伯の時代にはありませんでした。




サン・タンジュの城(サン・タンジェロ城)

 競馬の勝敗をしらせる大砲がなり、
謝肉祭はクライマックスへ突入します。
ろうそくを持って、人のろうそくを消して回るというゲームは、面白そうですね!

サン・タンジュの城


ポンテフィチ街
ヴィア・ディ・ポンテフィチ(ポ ンテフィチ街)

 アルベールは、田舎娘に扮した女性に、ここで馬車を降りるように指定されました。
ポンテフィチ街の標識


サン・ジャコモ寺院
  (サ ン・ジャコモ・イン・アウグスタ教会)


 アルベールは、この教会の階段を上って行き、
娘と落ち合うところをフランツが眺めていました。
が!
この教会階段2段しかありませんし、大変狭いのです。
階段の上で、待ち合わせるにはあまりにも不自然です。
サン・ジャコモ・イン・アウグスタ教会


アラ・パキス祭壇


アラ・パキス祭壇


 デュマはこちらの教会と取り違えたのではないかと思います。
こちらの教会は6段ほどの階段になっており、
階段の上にも待ち合わせするにふさわしい程度の広さがあります。

 上記サン・ジャコモ教会もこちらの教会も同じコルソ通りあります。
ポンテフィチ街からはサン・ジャコモ教会は北。
アラ・パキス祭壇は南に位置していて、
どちらもポンテフィチ街から同じ距離です。




スパダ宮

 モンテ・クリスト島に隠し財産を残して、
断絶したというスパダ家。
スパダ家の居城がローマ市内に残っています。
枢機卿となったベルナルディーノ=スパダが、老後過ごすために建築しました。
大きくはありませんが、優美な装飾があります。
現在美術館と国務院となっています。

スパダ宮


ヴィラ・メディチ
ヴィラ・メディチ

 小説上のスパダ家は、メディチ家を指すのではないかという説があります。
スパダ家も豪商であったそうですが、
国家予算にも匹敵する財産というと確かにメディチ家が思い浮かびます。
 メディチ家の本拠地はフィレンツェですが、
ローマ市内にも宮殿を持っていました。
ピンチョの丘の上にあります。




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